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2019年3月の31件の記事

2019年3月11日 (月)

こんな所に神社が

2月のことだが、笠利の蒲生崎観光公園〜展望台へ久しぶりに行ってきた。

赤木名集落と川上集落の間に公園まで降りていく道がある。

入り口の案内板に「蒲生崎観光公園 ← 35㎞」と書かれている。

…のわけがない、でも、35㎞に見えてびっくりした。

詰まった数字の間に小さな点があるので、「3.5㎞」なのだが、それでも結構遠い。

(長いな…この先の突端にはちゃんとUターンできる場所があるよね…?)

他には車の往来がないひっそりとした道を下へ下へと降りていると徐々に不安になってくる。

着いてみるとフツーに広い駐車場があり、展望台へ続く道もきれいに整備されていた。

ただ、人がいなくて閑散としている。

展望台は、青と白の鮮やかなコントラストのまるで竜宮城のような印象のコンクリート造りの建物だった。

四方が開かれたテラスのようになっていて、そこから海も山も周囲一帯が一望できる。

展望台から駐車場までのアプローチの途中に「蒲生神社」の案内板が立っている。

その矢印の指す方向には眼下の雑木林へ誘うようなゆるい階段が延びていた。

この時期ハブは出ないと思うけど、何かあったらヤバイよな…ひとりだし…

と、しばらくの逡巡の後、恐る恐る降りてみた。

少し前にハブが木から落ちてきて首を噛まれ人が亡くなったとかの話を聞いたばかりだった。

ケータイを首の上にかざして防御の姿勢をとりながら…いつ引き返そうかと迷いながら…

しかし、奥に深いと思っていた道は、意外なほど短くてその先に木造の建物が見えた。

蒲生神社だった。

短い石段を上がると鳥居の両脇に年代の古そうな石像が置かれている。

社殿は、屋根がトタン張りの比較的新しい建物だった。

境内の石碑には歴代の神主の名前が刻まれており、この神社が大切に守られてきたことが伺える。

この辺りにも平家の落人伝説が絡んでいたと思うが、調べていないのではっきりしたことは分からない。

神社のすぐ脇には、山肌を削っただけの今は段差もおぼろげな階段が上の道(展望台のアプローチ)へ続いていて、滑って転げた人もいるのではないかと思いながら、戻りはそこを上った。

それにしても、よくもまあこんな場所に神社を祀ったものだ。

屋仁集落から入る古道もあるようだが、道は平らかではなく草も生えているだろうし、それなりに距離もあるはずだ。(いつか行ってみようと思う)

険しく長い道を踏み越えて参拝に訪れていた昔の人たちの信仰の篤さを思うと感慨深いものがある。

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信仰心に支えられていた彼らは僕のようにハブにビビったりはしなかったのだろう。

そういうものがあれば人は強くなれるものだ。

”人はパンのみにて生きるにあらず”

されど、僕には先ずパンが必要…

2019年3月10日 (日)

市民合唱団の歌声

初めて名瀬市民合唱団の定期公演に行ってきた。

妻の小学校時代の恩師が団員にいて、それまでは当時の同窓生が一緒に出かけていたようだが、今回は他に誰も行かなかったようで、チケット2枚の予約を埋めるために僕が一緒に行く羽目になった。

そう、仕方なく付いていったのだ。

17時半頃に会場となる文化センターへ行ってみると、施設内の駐車場はすでに塞がっており、少し離れた臨時駐車場へと誘導された。

18時半の開演まではまだ1時間ほどある時点で、しかも、小雨の降るコンディションで、この混みようは何?と意外な気がした。

本当に失礼な話だが、素人が趣味でする合唱団だからそんなに大したものではあるまいと決めつけていたのだ。

公演が始まるまでは…

端的に言って、すごく良かった。

僕は素人だから専門的なことは何も分からないが、心地よい安定したハーモニーとオペラ・アリアの情感溢れた圧倒的なソプラノに魅了された。

龍郷町の赤徳中学校の生徒も参加していて、素直に成長していく島の子の清々しい姿と瑞々しい歌声を披露してくれた。

全体に、市民合唱団のひたむきな姿勢が歌声になって響いているといった、”気持ちの良い”公演だった。

(特別参加の中学生を除く)合唱団の平均年齢が65歳だと何度もアナウンスされていたが、妻の恩師もかつての職場の同僚も御歳70ン歳のはず。

ビシッと正装して舞台に立ち、ピンと背筋を伸ばして歌う姿はとても格好良かった。

妻にとっては、それが何よりも嬉しかったようだ。

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2019年3月 9日 (土)

一集落1ブランドの取材

1月下旬にしーまが主催した会議に出席した。

しーまは、地域に根ざした情報発信を積極的に展開している会社で、様々な切り口で発行されているフリーペーパーは誰もが一度は手にしているはずだ。

ブログの管理会社でもあり、僕のブロク「あげ漫でぃ!」もそこを使わせてもらっている。

(ブログは、ほぼ休眠状態になっているが、近いうちに再開したいと思っている)

そのときの会議は、奄美市が取り組んでいる「一集落1ブランド」について冊子を制作するための打ち合わせとスケジュール共有が目的だ。

前のブログに書いた、小湊集落と川上集落、そして奄美博物館での取材は、その企画の一端である。

一般人が普通に訪ねて行っては得られないであろう深い情報が、名の通ったしーまの取材という形でのアプローチでどんどん吸収できるのは頼もしい限りだ。

今回は、そういった意味で貴重な体験をさせてもらった。

それぞれの集落にはそれぞれの歴史や文化があるんだという、当たり前のことではあるが、つい見過ごしてしまいそうな事実を再認識できたことが取材を通じて得た一番の収穫かもしれない。

取材に加わるに当たってボイスレコーダーを購入して使ってみたのだが、実は全く再生していない。

当然だが、再生には録音した時間と同等以上の時間がかかるのだ。

残念だが、今のところそれだけの余裕がない。

でも、資料として残しておけるのでパソコンに取り込んでおいた。

幸い、それぞれの取材が興味深いものだったので、取材の記憶と写真だけでイラストは描けそうだ。

奄美市に限らず、奄美にはたくさんの集落が存在している。

中には、過疎化が進んで消滅の危機が迫っている集落もあるが、そういった集落にもかつて多勢の村人で賑わっていた歴史や築き上げてきた独自の文化がある。

あと10年、20年といったスパンで考えると集落の状況は大きく様変わりしていることだろう。

僕のイラストが、往時の姿を留めおく役目を少しでも担えるならば…と思う。

これまで車で通り過ぎるだけの景色としての集落だったが、いざ車を降りて中に入ってみると想像以上に奥深いことに驚かされる。

生まれ育った”シマ”で一生過ごす人がいることを考えてみても、そこに住む人々にとってそれぞれの集落がどれだけ大きな存在であるかが伺える。

取材というアプローチの機会はほとんどないだろうが、集落誌を読むなり、身近な年配者の話を聞くなりして出来るだけ多くの情報を汲んで蓄えておきたいと思う。

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奄美群島の中の奄美大島だけをとっても、手に負えないほどのたくさんの情報が溢れている。

そうしたものをマンガやイラストにしたいと考えている人間にとっては幸せなことだ。

2019年3月 8日 (金)

夢見ごこちでいいと思う

テレビで、プロレスラーの「ザ・デストロイヤー(88歳)」が亡くなったとのニュースを見て、還暦を前にしてプロレスラーになった男性のことを思い出した。

それは、数日前のテレビニュースで放送された話題だった。

その男性は若いときにアントニオ猪木が立ち上げた新日本プロレスでレスラーを目指していたが、途中で自分には無理かもしれないと自信を失くして夢を諦めたらしい。

それが、還暦を目前にして突然「このまま人生を終えたらきっと後悔する、レスラーになってリングに立ちたい!」という強い衝動に駆られて、再びプロレスの門を叩いたのだ。

元々レスラーを目指していただけあって体格は良いのだが、さすがに58歳の身体で激しい訓練に耐えていくのは並大抵の決意ではなかったはず。

テレビでは、男性が夢を叶えてリングデビューを果たすまでを追っていた。

試合には負けたが、おそらく事情を知っているであろうプロレスファンから熱い声援を受けていた。

どんなスケールにせよ、夢を叶えることができたらそれは幸せなことだろう。

ずいぶん前に見たアニメ「ロボッツ」で、夢を諦めた主人公が父に電話した際に、父が「夢を諦めても、その夢はおまえをどこまで追いかけてくるぞ」と言った…

と、思い込んでいた。

あとで確認したら、「一生後悔するぞ」と普通の言い方だった。

なんで「夢が追いかけてくるぞ」と聞こえたのか分からないが、そのときの僕の心情がそういう風に受けとめたのだろう。

「夢」は、やっかいだ。

それが明確なら人生を左右するし、おぼろげならいつまでも胸にくすぶり続ける。

「夢」が純粋で真っ直ぐであればあるほど、叶わないことが多いはずだ。

それは人生を限りなく消耗させるかもしれない。

そうなる前に手放すか? しかし、どこで踏ん切りをつければいいのか迷うはずだ。

僕の場合は、すごく曖昧な夢…のようなものだったので、激しく感情がたぎることもなく、絶望もなかった。

だから、夢に向かって一心不乱に打ち込んでいる人を見ると眩しいし、羨望に似た感情を覚える。

でも、ぼんやりとした夢(?)は、なんだか湯たんぽのように温くて抱き心地がいいのだ。

たぶん、ほとんどの人が抱いている夢がこの類ではなかろうか?

そして、僕が「マンガやイラストを描く」という点においては、規模は小さくとも何とか実行できているように、たとえ、プロのミュージシャンとして大舞台に立てなくても、小さなステージで演奏して、それなりに幸せを感じている人がたくさんいるのではなかろうか?

ストイックに大きな夢を追って叶えていくのは、それができる人たちに任せておいて、そうでない人たちは、おぼろげな夢を抱きしめ、温め、燻らせ、ときに燃え、ときにひび割れて、でも、あとから思うとまあいい人生だったかなと言えるような、夢見ごこちな生き方でいいんじゃないかな、と。

とっても曖昧だけど、そんな感じ。

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くだらない夢など見ない!と言う方が地に足がついて一見強そうに見えるけど、実際に強いのかもしれないけど、たぶん当たらないよなぁと言いながら宝くじとか買う方が好き。

強固な意志をもって突き進む鉄人のそばだと自分が割れそうで怖い。

ちっ、まだ寝てるとか言われても、あったかい布団で幸せな夢を見ていたい。

そうやっているうちに人生を逃げ切りたい(笑)

2019年3月 7日 (木)

可愛いのが仕事

2014年、捨て子から育てていた犬のピースが死んでしまい、入れ替わりにフクロモモンガのノアがやってきた。

妻のかつての教え子がペットロスの慰めになればと譲ってくれたのだ。

最初に見たときは、不釣り合いな大きな瞳に少し違和感を覚えたのだが、慣れてくるともう、最強の”つぶらな瞳”にしか見えない。

最近は、元の名に”子”をつけてノア子と呼んでいる。

かわいい女の子だ。

中年のおじさんがケージの前で「ご飯だよ〜、おいで〜美味しいよ〜」と猫なで声で戯れている姿は側から見ると不気味。

でも、フクロモモンガは見た目も仕草も鳴き声もみんな可愛いのだ。

どうしよう。

たまに食べ物と間違えられて指を噛まれたり、爪を立てて手にぶら下がったり、おしっこをかけられたりするが、仕方がない、可愛いからぜんぶ許す。

ご飯は、一日一回夕食だけ。

わざとケージの扉にプレートを置いて、しばらく間近で食事の様子を見ている。

好物は甘い果物で、野菜は残すことが多い。

他には豆腐やヨーグルトなども大好きで、気に入った食事のときは喉をクプクプと鳴らして喜ぶ。

また、昆虫も食べるので、愛くるしい顔で乾燥ミルワームをわしづかみにしてバリバリ食べている姿は、見ていてちょっと複雑な気持ちになる。

最近気になっているのは、動きが少し緩慢になってきたこと。

以前は元気よく飛び跳ねていて、その拍子に扉が開いて脱走したこともあったほどだったが、近頃はもそもそと歩く姿が目立つようになった。

うちの娘になってから約5年、もらったときに2歳だと言われていたので、もう7歳くらいか?

フクロモモンガの寿命は、7〜12歳くらいが平均らしい。

元気なお転婆娘もいつの間にかお婆ちゃんになってしまったということか?

夜行性なので昼間はほとんどポシェットの寝床の中で丸まって眠っている。

いつの日か…そんな日は永遠に来なければいいけど、夜になっても起きてこないという日がくるのだろうか?

最近は、朝起きたときにケージの下にうずくまった塊がないかと息を詰めて見に行ったりする。

飼っていたインコが、何の前触れもなくある日突然死んでいたときの映像がダブってしまって怖いのだ。

だから、元気にご飯を食べている姿を見ると、安心して感謝したいような気持ちになる。

可愛いのが仕事のノア子の仕事ぶりをいつまでも見せていてほしい。

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ここで食べている間中ずっといい子いい子して撫でている。

あまりに可愛いのでLINEスタンプを2個も作ってしまった。

いろいろなエピソードを四コマ漫画にしたいとも考えているが、ノア子がまだ元気なうちに始めないといけない。

親じゃないけど、親バカ状態だ。

2019年3月 6日 (水)

朝だ、徹夜

そんなつもりは全然なかったのに、ついつい徹夜をしてしまった。

注文のあったイラストを夕方までに終えて、夜はゆっくり構えていたのだが、寝る前に明日郵送する分を準備していてちょっと表紙のデザインが気になった。

少し修正してみようと作業を始めたのが0時頃、いじっているうちに全体のバランスが崩れていって結局いろんなところを手直しするハメになった。

一通り終えたあと、今度は何か物足りないという気になり、空白に文字をはめ込む作業を始めた。

シンプルな絵なのになんでこんなに時間がかかるんだ!と、自分自身に呆れながらも作業を続け…

そのうち他の絵も気になって少しいじったりして…作業を終えたのは6時頃。

雨が降っていたので外はまだ暗かったが、朝だ。

20代の頃に麻雀をしていていつの間にか朝が来たみたいな、「もう朝だ!」の感覚。

できればそのまま起きて、イラストを郵送してから眠れば良かったのだが、仮眠をとるつもりで横になり、目が覚めたのは10時半。

郵便局へ行けたのは昼前。

なんのための徹夜やら…

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まあいいや、切り替えて次がんばろう。

徹夜はしないで済むように。

2019年3月 5日 (火)

またまた企画展を観てきた。

先週、笠利のまえだ屋へTシャツを届けた帰り道に奄美パークへ寄った。

ゆらん郷で在庫を確認した後、いつものように美術館へ。

企画展で「奄美横浜交流展 遊展」という展示が催されていた。

最初入ったときは誰もいないと思っていたが、仕切りの向こうで盛んにカメラのシャッターを切る音がする。

どうやら作品すべてを写真に収めている様子だ。

シャッターとシャッターの間にちょっとずつ間があるので、1点ずつ丁寧に撮り込んでいるのだろう。

きっと関係者だなと思った。

作品は一人1点ずつ出品されていて、洋画、日本画、モダンアートと様々な表現で楽しませてくれた。

仕切りの向こう側には奄美の作品が飾られており、名前やタッチに見覚えのある方たちなどもたくさん出品していた。

島にはたくさんのアーティストがいるんだなぁと改めて思う。

恵まれた自然と独特の文化の中に身を置いていると、筆を取らずにはいられない、あるいは、カメラを向けずにはいられない何らかの衝動がおこるのではないか?

日本画家の田中一村を奄美に留めたものは、そういったエネルギーだったかもしれない。

展示場を出る際に椅子に腰掛けていた男性を見て、やはり関係者だったんだと思いながら声をかけた。

もしかして横浜から来られたのかと思ってそう尋ねたら地元の者だという。

しばらく話しているうちに何となく「久保井さんではないですか?」と聞くと、そうですとの返事。

「フナンギョの滝」を描いた人だという気がしたのだ。

どうしてそう感じたのか分からないが、様々な展示場で名前だけ知っていた久保井さんに初めて会えた。

次の来場者が入ったので、その場はお礼だけ言って会場を後にした。

マンガとかも興味をもってくれるだろうか?

いつかどこかでそういう話しをする機会があればと思う。

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2019年3月 4日 (月)

水の集落?

しーまの取材で笠利の川上集落の高倉を見学した続き。

高倉の少し奥に水が湧き出る場所があり、かつてはこの家の飲料水として使われていたようだ。

今はその場所一帯が竹やぶで覆われているが、今でも水は少しずつ流れていて足元の地面がずっと湿った状態になっていた。

薄暗くて湿っているとハブが心配だが、家主はこともなげに「ああ、出るよ」と。

水の湧き出すところは他にもあるようで、昔はそこから田んぼに水を引いていたらしい。

水が豊富なので稲作が盛ん、稲作が盛んなので高倉が活躍した、という図か。

川の上流にはダムが建設されていて、周辺地区の飲料水として使われているようだ。

ついでにダムのある場所まで案内してもらった。

少し山奥のそれほど標高のない場所に大きなダムがそびえ立っていた。

「川上」という集落名は、昔からここが上流の水源地として認識されていたからではなかろうか?

人が住みつくためには何よりも先ず飲み水が必要だ。

最初にここに定住した人たちは、水の恵みにさぞかし喜んだことだろう。

って、調べたわけではないので、ぜんぶ想像だけど (*´ω`*)

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2019年3月 3日 (日)

静かな高倉

しーまの取材で先月笠利の川上集落へ行き、現存する高倉を見学させてもらった。

屋根は台風で飛ばされたあと、茅葺からトタンに変わっていたが、柱が太くて堂々とした高倉だった。

この高倉以外でも、経験者の高齢化もあり、茅葺きができる人がいなくなったためにだんだんトタンに変わっていく事情があるようだ。

茅葺きにはそれなりの人手がいるが、トタン葺きなら大工さんだけでできる。

茅葺きの家を保存するためにカヤにファイバーをかけたという例もある。

高倉が現役の頃はこの蔵に脱穀した米などを保管していたとのこと。

滑車を引いてはしごを滑らせるようにして重い米袋を上げたという。

以前は農村生活を支える大事な役目を負っていた高倉だが、農業人口の減少や交通の発達で食料の入手が容易になったため、次第に使われることがなくなった。

面倒なカヤの葺き替えが必要だったり、台風による破損などがきっかけでだんだん撤去されていき、今や観光用として設置されているのがほとんどではなかろうか?

(ああ、でも、奄美文化センターの高倉は去年の台風で無残な姿になってしまったが…)

ところで、この家で見た高倉は、大和村の群倉(ボレグラ)や公共施設で見るような、奄美で一般にイメージするタイプではなく、倉の部分が立ち上がっているので庫内は広い。

誰にも邪魔されない趣味の空間として、男が憧れる”隠れ家”的な使い途があるかもしれない…と想像をめぐらせる。

ログハウスの代わりに奄美発の高倉キットとかあれば楽しいかも。

柱はそんなに高くなくてもいいかな、酔って落ちると大変だから(笑)

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惠義盛さんのスケッチ画には、身近な風景として高倉とその周りで働く人々が描かれている。

ここの周りに人が集まり、ソテツの実を割ったり、ソテツ葉をくくったり、米を脱穀したり、あるいは、足元の日陰で休んだり、子ども達の遊び場になったり…と様々なシーンで人々の生活に寄り添ってきたのだろう。

昔の島の暮らしを静かに語ってくれる大切な存在だ。

2019年3月 2日 (土)

スタンプ細胞停止中

「スタンプ細胞」というのは、小保方さんのスタップ細胞が話題になった頃につけた僕のLINEスタンプのネーミング。

増殖してくれればとの期待をこめてつけたが、スタップ細胞はその後存在を否定され消えてしまい、スタンプ細胞も現在活動停止中だ。

2016年までに7個のLINEスタンプを作って、2017年はゼロ、去年2018年は続けざまに4個のスタンプを作った。

この勢いでいけばいくつ作れるだろうかと思っていたが、パタリと止んでその後半年以上何もできていない。

順調に作っていた頃に、弟夫婦に犬のスタンプを作ると約束したがいまだに果たせていない。

まあ年内には作れるだろうとボチボチやっていたが、中断したままになっている。

手元のノートには、他にスタンプのアイデアがたくさん書かれているが、どれだけカタチにできるだろうか?

今のところ一度登録されたスタンプは無期限で販売されているが、ものすごい勢いで増え続けている状況を考えると、いずれどこかで線引きされるような気もする。

すでに何十万個というスタンプが出回っている中で、日々新たに似たようなスタンプが追加され続けている。

人気のスタンプは売れているが、中には販売実績が限りなくゼロに近いものもあるようだ。

なにしろ販売されている数が半端ないし、無料スタンプもたくさん出ている。

広大な裾野に埋もれて喘いでいるスタンプの方が圧倒的に多いのだと思う。

幸い僕のスタンプは何とかそこそこ売れている。

少なくともゼロではない(笑)

一番人気があるのは「島のばあちゃん」で、今のところ全体の売り上げの7〜8割くらいは占めているのでは?

いずれにしても、LINEスタンプは制作の労力を考えると金銭的にはほとんどペイしない。

それでも作りたいと思うのは、ひとえに ”使ってくれる人がいるから” だ。

自分が作ったスタンプが実際にどこかで使われているという喜びは、お金には置き換えられない類のものだ。

ちょっと表現しにくいけど、ユニークなカタチで誰かの役に立っている感とでも言うのだろうか?

今は停止中だが、そろそろ冬眠から醒めてスタンプ細胞の活動が活発になればと、自分の頑張りに期待している。

先ずは約束した犬のスタンプを作らないと…

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半分は奄美の方言スタンプ。

いずれは動くスタンプも作ってみたい。