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2011年3月の6件の記事

2011年3月27日 (日)

耳を澄ませば・・・オオトラツグミ

毎年、奄美大島全域でオオトラツグミの生息一斉調査を行っているようだ。

ようだ・・・と言うのは、これまでここでそういうことをしていることすら知らなかったから。

奄美野鳥の会の村田さんに誘われて初めて参加した。

「4時50分に油井岳展望台に集合してください」

「4時って・・・あ、朝ですか? 夕方じゃなくて、朝の4時?」

オオトラツグミは早起きな鳥なのだとか。

3月20日の当日、まだ暗い山道を登って集合場所に到着。しかし、誰も来ていない。

雨が降ったので延期になったかな? 湿度が高くて暖かいからハブを警戒したのかな?・・・などと、考えながら集合時間ぎりぎりまで待った。

諦めて帰るときにやっと気づいた。集合場所は高知山の駐車場ではなく、油井岳の駐車場だったと。

で、時間10分遅れで皆と合流。ざっと見て20人以上の人が集まっていた。

ビギナーなので、ベテランの村田さんに同行していくことになった。

僕を含めて素人3人を引き連れることになった村田さんは、私もまだまだ経験不足で・・・と困惑気味。

車で地蔵峠のポイントまで移動した。

まだ暗い道に降りてじっと耳を澄ます。

僕は足元にハブがいないかと目をこらす。

「あっ、今あっちの方から聞こえた」と、村田さんが書き取り用の図面を抱えながら右に顔を向けた。

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オオトラツグミってなんて鳴くんだっけ。残る3人は「?」って感じで顔を見合わせた。

「あっ、また聞こえた・・・」

ピローーー(と、僕には聞こえた)と甲高い鳴き声がする。

次第に僕らの耳も慣れてきた。ここはオオトラツグミが多く生息する場所のようで、右2カ所、左1カ所、左後方1カ所と、最低でも4羽を確認できた。(合っているかな?)

大きく聞こえたり、小さく聞こえたり、場所が少しずれたり、というのは鳥が移動しながら鳴いている可能性が高いとのこと。

まだ夜も明けぬ朝早く、境界も定かではない黒い山を凝視してひたすら耳を澄ます。

こんな経験は初めてだった。

”耳を澄ます”という行為自体、ずいぶん久しぶりの感じがする。

6時を過ぎてから山が次第に賑やかになってきた。

アカヒゲ、ルリカケス、コノハズク、セキレイ、エトセトラ・・・(素人なので正体がよくわからない)あっちこっちで鳴きだした。山羊の鳴き声や遠く鶏の声も聞こえる。

目を閉じて、鳥の囀りを聴いていると、ふと、ラジオの「音の風景」を思い出した。

この音を聴いた人はどんな光景を想像するのだろうか?

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調査を終えて、ふたたび集合場所へ戻った。

リーダーは、各ポイントで収集した情報を重ね合わせながら、オオトラツグミの生息エリアを地図に書き込んでいった。

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僕はその間暇なので、駐車場周りを散策した。

意外なほど、きれいに手入れがされていた。植木はきちんと刈り込まれ、雑草もすべて刈り取られていた。

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桜が少しだけ咲いていた。奄美在来種の寒緋桜はすでに咲き終えて葉っぱだけになっているが、この桜はこれからのようだ。

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道の下にはヒカゲヘゴの群生も見える。

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8時過ぎに一通りの作業を終えて、リーダーが、今日参加したことへのお礼と今後の野鳥の会の計画などを話して解散となった。

早起きして自然に接すると気持ちがいい。いい体験ができた。

また次の機会にも・・・今度はオオトラツグミより寝坊の鳥でいいけど。

2011年3月20日 (日)

食料を届けてくれてありがとう

3月15日のことだった。

東京の板橋区に住む息子から近所のスーパーに食料がないから、遠くまで買い出しに行ってくると連絡があった。

スーパーのガラガラの棚が写メでおくられてきた。

震災の危機感で皆が食料買いに走ったことと、流通がストップしたためらしい。

残念ながら息子は、買いだめをするほどの経済力もなく、その日その日を生きている(笑)ので、大きく出遅れたのだ。

だいぶ経ってから、また写メが届いた。

床に並べられたレトルト食品群。わずか5~6品といったところだ。

買占めを防ぐため制限されたせいでもある。

それを知った妻は、母親の本能に任せてレトルト食品や缶詰めを大量に買って息子と娘に送った。

ところが、その2日後に宅配業者から関東地区には荷物を送れなくなりましたとの通知があった。

やはり、同じようにして物資を届けようとする荷物が集中して、関東の営業所はパンク状態らしい。

既に送った荷物もいつ配達できるか分からないとのことだった。

「10日・・・へたをすると2週間ぐらい覚悟した方が・・・。」配達の人も、状況がつかめないといった感じだった。

ところが、である。

荷物を送ってから4日後の3月19日にちゃんと荷物が届けられたのである。

息子の話しでは、ヤマト運輸の人が自転車で運んできたとのこと。

ガソリンが極端に不足して車が出せない状態なので、自転車+リヤカーという仕立てで荷物をせっせと運んでいるらしい。

「車が出せないなら、自転車を使え、みんな困っているんだ。」との会社の指示とのこと。

息子は、配達員の話に感動して、さらに、(母親の手加減のない愛情がぎっしりと詰まって)すごく重い荷物を3階まで運ばせたことを申し訳なく思ったという。

そう連絡してきた息子は、母親にありがとうを言うのを忘れた。

親の愛情は、ときに一方的で、煙たがられたり、宅配業者の集荷場を混乱に陥れたりもするが、しかし、それが人情というものだ。

子どもの身を案じて食料を送る母親も、届いた荷物を一刻も早く届けようと奮闘する宅配業者も、どちらの行為も尊い、と思う。

2011年3月13日 (日)

”スカイプ”できた

昼間、妻のところにチェーンメールが届いた。

被災地への電気供給が不足しているので、九電が東電へ送電することになり、九州の人もできるだけ電気を節約するよう協力してほしいとの内容だった。

詳しい仕組みは分からないが、ここで節電した分が被災地に届けられるなら、おおいに協力したい。

というわけで、今夜の我が家はいつもより一層暗い。(テレビとパソコンはつけている)

つくばにいる娘の声を聞きたくて電話をかけるのだが、「被災した人たちのために通信は控えて」と通話を断られてしまう。

「スカイプなら、携帯の電波に影響を与えないから、それにして」と。

「スカイプ」って言われても、聞いたことはあったけど・・・。

娘から届いたメールを頼りに、インターネットにつないで、”SKYPE(スカイプ)”なるものをダウンロードした。

そして、少し手間取ったが、娘につなぐことができた。

専用のマイクがないので、イヤホーンをマイクがわりに使って会話した。

「もしもし、聞こえる? ・・・あ、聞こえた」

パソコンのスピーカーからちゃんと娘の声が届いた。不思議だ。

妻を呼んで、しばらく会話を楽しんだ。スカイプ同士なら無料なのだ。

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興味はあったけど、面倒くさそうだったので今まで手を出さなかった。

人間って必要に迫られたらやるもんだな。

今度はお互いの顔を見れるようにWebカメラをつけて・・・と、だんだん欲も出てくる。

携帯電話からの恐怖

3月11日の午後2時48分、娘から携帯電話がかかってきた。

仕事中だったので、迷ったがとりあえず電話に出た。

「もしもし」小声で、今仕事中だから、と言おうとしたら、いきなり、

「お父さん、地震!地震! すごい揺れてる、怖い!」叫び声が聞こえた。

娘は地震とか雷に対して極端な怖がりなので、「今、地震があるの? 大丈夫だよ、すぐにおさまるから・・・」となだめようとした。

が・・・、何かが倒れる音がする。娘の声もこれまでとは違い悲鳴に近い。

さすがにただ事ではなさそうだと思い、向い側に座っている同僚に、「今つくばに居る娘から大きな地震が起こっていると電話がかかっている。関東地方で地震が発生しているかも」と告げた。

電話の声はほとんど涙声になっている。

かなり長い間揺れているようだ。離れているので、助けをもとめられてもどうしようもない。

やがて、揺れが収まり、外の様子を知らせてくれた。部屋から見える場所で家屋の屋根が崩れているらしい。人々が慌てて外へ飛び出してきたとも。

自分も出た方がいいか聞かれたので、とりあえず、玄関のドアを開けて、まだ部屋に残るように指示した。屋根が崩れるようなら、余震での落下物が怖い。

もし、窓ガラスが割れたり、壁に亀裂が入ったら、外に出なさいと言ったが、そうなった場合アパートの階段を駆け降りることができるだろうか?

すぐに余震がきた。さっきよりは揺れが小さいという。

同僚たちが、インターネットやテレビで大きな地震の発生を知り、職場は騒然とし始めた。

つくば市は震度6だったと後で知った。

やがて携帯電話の通話ができなくなった。

町に津波警報が出され、海岸付近の住民に対し避難勧告が出されたが、それよりも関東に住む子どもたちや兄弟、友人のことが気がかりだった。

連絡がとれなかった息子から無事だとメールが届いたのは夜だった。

テレビでは信じられないような惨状が報道され、度々地震警報が流れていた。

その晩、僕らは、テレビをつけっぱなしで、携帯電話を握りしめながら床に就いた。

友人たちの無事を確認できたのは、翌12日の昼だった。

余震は、まだ続いているようだ。

2011年3月11日 (金)

パールシェル

奄美大島では明治の頃から、100年以上も真珠養殖を行っている。

開くと鳥の翼のような形をした二枚貝の真珠貝「マベ」だ。

マベは貝殻に真珠の基になる核をつけて真珠をつくるので、半形の真珠ができあがる。

現在は、熱帯地域からやってきた南洋真珠の白蝶貝も養殖している。

どちらも、貝の誕生から真珠をつくるまでには、6年ほどの長い年月を要する。

そうして、ようやく真珠を取り出すと、真珠は磨かれてショーケースに収められ、一方の貝殻は野積みされ、やがてまとめて安くで買われていく。

これまで、ずっとそうしてきた。

でも、まてよ。

マベも白蝶貝も真珠貝である。貝殻の光沢は真珠のそれと元々同じ性質のものだ。

もったいない!

真珠の貝殻で何かつくれるのではないか?

そう気づいて、養殖の歴史の途中から、貝殻の細工を始めた。

文字をつくったり、キーホルダーにしたり・・・。

そして今度いよいよ本格的に貝殻の加工を手掛けることになった。

マベや白蝶貝の真珠養殖をこれだけの規模で手掛けているのは、ここだけだ。

マベ・白蝶貝の真珠、そして貝殻・・・他のどこにもない宝がここにある。

と、いうわけで、先ずは貝殻細工のデザインを募集することになったようだ。

そして、僕にポスターやチラシで使うイラストの依頼がきた。

「パールシェルデザインコンテスト」

子どもたちも応募してくれることを期待して楽しげな雰囲気で描いた(つもり)。

Photo

イメージしてもらえたかな?

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こっちは絵だけではイメージが湧かないか・・・。

シロくんとマベっち。好きなキャラなんだけど。

2011年3月 2日 (水)

請島の大山に登った

2月27日標高398メートル、奄美大島では4番目に高い大山(ミヨチョン岳)に登った。

奄美の各地で催された「シマ博覧会」のプログラムに参加してのことだ。

この山の頂上は、地元の人には知られていたが、一般の観光客が登るようになったのはごく最近とのこと。今は登山ルートもできている。

請島に渡るためには外海に出ないといけない。その日は時化ており、大きなうねりに船酔いする人が続出した。僕は、元々乗り物に弱いので、最初から用心して酔い止めの薬を飲み、船室で横になっていたので何とか無事だった。

池地(いけじ)の公民館でしばらく休んでから、入山にあたっての注意事項などの説明を受けた。

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数台の車に分乗して、登山 口まで移動した。車は坂道をどんどん登っていった。このまま頂上付近まで車で行くのかな?

と、思っていたら、中腹あたりで降ろされた。

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区長さんの奥さんが用意した塩をなめて、いざ入山。手つかずの自然が残っている林の中の草を踏みしめながら、ひたすら坂道を登り続けた。

そろそろ暖かくなってきたので、ハブが活動を始めるのではないかと少々ビビりながらも、珍しい植物群に夢中でカメラを向けていた。

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途中途中で案内役を勤めてくれた池地(いけじ)の区長さんが、この先は集団自決を行おうとした場所、ここは戦闘機が墜落した場所と歴史の片りんを語ってくれた。

約30分ほど歩いて頂上に着いた。大きな一枚岩を登ると、

「うわーすごい、すごい」と思わず声をあげたほど、眼下にほぼ360度の絶景が現れた。

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岩の端ににじり寄って、下を見る。ぐーっと吸い込まれそうな感覚だ。

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今日の天気は予報では雨。濡れることを覚悟できたが、いかなる幸運か、雨は少しも降らず、お日様さえ顔をのぞかせた。

岩の上の思い思いの場所で弁当を広げて食べた。こんな景色を見ながらご飯を食べることってこれから先にあるだろうか? そんなことを思いながら、しばし充実感に浸った。

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度胸のある人たちが岩の端に寄って記念撮影をしている。見ていて手に汗が出る。

僕は高いところは割と平気な方だが、さすがにこの岩の縁近くに立つ気にはなれない。

1時間以上岩の上で過ごしてから、元の道をたどって下山した。

登山口から道路に降りると、区長さんの奥さんがグァバでつくったゼリーを手渡してくれた。山の頂上に登った達成感とともに甘いゼリーをほお張った。う~ん満足。

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で、帰りも時化。

来たときと同じように、1階の船室でひらすら寝る。

古仁屋の港に着いたときには、興奮と山登りの疲れとローリングする船のせいで、疲労感が全身を襲い、目を開けていられない状態だった。

家にたどりついて、ホットカーペットの上にどっと倒れこむと、そのまま眠ってしまった。

岩から落ちる夢を見た。