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2019年2月14日 (木)

ソテツ畑の「記憶」

一昨日、しーまの取材に同行するため小湊まで出かけた。

朝戸のいつもは通過してしまう三叉路を右に折れて小湊集落へ向かう。

山間ではあるが、平地が十分にあるのであまり窮屈な感じがしない。

懐も深く海沿いの集落にたどり着くまでには意外なほど時間がかかる。

集落を案内してくれたのは、定年後に故郷へ戻ってこられたTさん。

取材慣れしているしーまのライターFさんと案内役のTさんの会話に聞き耳を立てるといった感じで情報を収集した。

初めは…

そのうち自分の好奇心を抑えきれなくなり、積極的に質問をし、意見もした。

色々と新しい知識を得られることに少し興奮していたかもしれない。

小湊と言えば、なんといっても「フワガネク遺跡」が有名だが、それが発見されるキッカケとなった奄美看護福祉専門学校の敷地に隣接する蘇鉄畑の痕跡を最初に案内してもらった。

元々は学校の敷地を含めて此処いら一帯が蘇鉄畑であったようだ。

その蘇鉄が群生するはるか昔、6〜7世紀頃にここに大規模な貝製品の製造施設があったと推定されている。

それら地下に眠る遺跡の上に約1000年の重なりを経て蘇鉄畑が広がった…というわけだ。

蘇鉄は集落の人々に多大な恩恵を与えてくれた。

蘇鉄の実や幹は島民の大切な食料や調味料となり、蘇鉄の葉は畑の作物を守る覆いであり、田んぼの堆肥であり、乾燥させて火起こしの燃料にもなった。

これだけの規模の群生があれば集落民の生活は十分賄えたのだろうと思ったが、Tさんの記憶によると他所の地域から舟で蘇鉄の葉など持ち込んでいたということなので、蘇鉄の需要は今想像するよりもずっと高かったのだろう。

蘇鉄が植えられたのは、薩摩の統治時代に畑の境界の目印として使われたのが始まりらしい。

専門学校が建って切り取られた蘇鉄畑の切片が境界を示すフェンスのように奥まで続いている。

無理に頼んで狭い蘇鉄道を中ほどまで進んだが、そこから先はなにやら人様の畑を横切らないと渡れないらしく、途中で引き返した。

”ソテツは恩人”という本を前に読んだことがある。

そのタイトルの元になった瀬戸内町のSさんは、今年1月に亡くなった。

蘇鉄はもう、その過去について語らず、やがて奄美の山々に埋もれていくのかもしれない。

Dsc_0648

(この先に今も蘇鉄畑が残っている…らしい)

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